≪有明海:海とその周辺≫
1.有明海 私は漁業の家に生まれ、育ちました。男四人女一人の三男で、結局選んだ道は漁業でした。私は潜水漁業が主体で六十歳を迎えてまだまだ海を捨ててはいませんが、ここ何年も漁には出られないのが有明
海の現実……タイラギがいないのです。
・有明海の地理、歴史、生物、沿岸の産業、環境問題についてはWikipediaにまとめられています。
2.有明海の自然の恵みー昔(証言:『有明海の今昔』より)
・特徴として「沿岸各地で広大な干潟(tidl land)が存在する」ことで、「干潟の泥には水に含まれるリンや窒素などを吸着・沈殿させる浄化作用があるほか、栄養分が多いことから田畑の肥料
としても用いられた」とあります。
・歴史的には、「江戸時代に入ると米の生産拡大を目的とした干拓が次々と行われるようになり、海岸線の交代は加速した」とあります。
・干拓によって有明海全体で陸地化された面積は、昭和60年代の時点で260平方キロメートルを越えており、諫早湾干拓によって更に約9平方キロメートル拡大した」と記されています。
・有明海全体の面積は(島原湾を含めて)、約1700平方キロメートルというので、諫早湾の干拓地は0.53%に相当します。
漁業を始めたのは十九歳の時。地元の高校を中退して一度は福岡市の自動車会社に勤めたのですが、漁師になった友人から「一日漁に出ると二万円は稼ぐ」と聞いて、柳川に戻ったのです。当時の私の月
給は九千円ほどでしたからね。それに元々海は大好きでした。中学生のころから長兄について漁船に乗り、タイラギの殻を剥くなどの手伝いをし、高校の入学式の日も川で潜水の練習をし、同級生が水の中の私を見つけて「おい、きょうは入学式ぞ」と言ってくれたのに「こん終ってから来る」と答え、結局は水から上がらなかったほどでした。
そして二十五歳の時に念願の漁船を手に入れました。船を買い替える漁師さんがいて、それまでの船を売ってくれたのです。この時に借金をして買ったのが「くろがね丸」。いまの船は二代目です。船を持って本格的に漁業を始めた昭和四十五年ごろは、タイラギ漁場は広かったし船数も多かった。福岡、佐賀の両県から合わせて四百隻以上の漁船が出ていました。大漁の時は、潜って採ったタイラギから柱を取り出す作業を、船上の三人が手を休めず
にしても追いつかないほどでした。しかも当時は柱以外のワタは捨てていたのです。どの船も、いっぱいにタイラギを積んで帰ってきていました。陸に上がれば毎日のように入札があり、貝柱が多くても値が下がらなかった。『金になりよった』です。一シーズンで二千万円を稼ぎ出す漁師さんもいました。
陸上と違って海底は基本的には所有権はなく競争ですから、入札に大きな貝柱を出した漁師は、次の目は他の漁師にマークされます。優良漁場にありつこうと、その漁師が船を出したあとを他の漁師が追うのです。だから自分か見つけた優良漁場にブイを沈めていても、簡単には近づけないことも多かったですね。
やがてタイラギの資源保全や漁業秩序維持のために有明海潜水器漁業者協議会が福岡県と佐賀県にそれぞれ設立されました。漁期の決定や休漁日の設定、操業時間の制限、保護区の設定などを行っていました。私は福岡県の会長や福岡・佐賀協議会の会長も何期か務めさせていただきました。
タイラギ漁は、およそ七年サイクルで漁獲量が変化します。福岡県の漁獲量は昭和三十四年ごろから増え始め五十三年、六十年、平成三年、九年に千トンを超える水揚げがあり、逆に平成六年はわずか九十五トン、十一年はまったくとれずに休漁となっています。
この休漁は現在も続いていて、春先に稚貝が立っても夏場にはほとんど死んでしまう状況が続いているのです。その原因が何なのか、私たちにとっては重大なことであり、現在大学の先生方にも協力していただき調査をしているところです。
以前にも確かにタイラギが不漁の時はありました。それでも潜ればサブロウガイ、ナガニシという貝がたくさん採れていました。ナガニシは四月、一力所に集まって卵を産みます。三百キログラムも固まっていることもあるのです。それからウミホオズキ。食べられませんが、口に入れて鳴らして遊ぶのです。地場の特産品として沖の端水天宮の出店で売られていました。しかしその貝類までも近年は減っています。
ナガニシは、いまはほとんどいませんし、アゲマキはまったくいない、ハイガイは佐賀県沖に少しいるだけで他はまったくいません。マテガイもサブロウガイもほとんど姿を見ない。メカジャもわずかしかいない。これらは昔は多くいました。
余談ですが、漁師さんの中には年金に加入していない人が多かっかようです。「年寄りになってもアゲマキ採りに行くけんよか」と言ってですね。潮が引くと簡単に採れるのがアゲマキ。五千円から一万円の水揚げにはなっていましたからね。
近年、多くの漁師が陸に上がるハメになってしまいました。それは自然を無くす時代となったからです。政治が悪いのです。昭和五十四年に長崎県南部地域総合開発に反対して海上デモを行ったのは私たちでした。タイラギ漁船三百隻が出たのです。ノリ漁業者が諌早湾干拓事業で海上デモを行ったのはずっとあとのことです。
有明海はいま、危機に瀕しています。川にはダムや堰が造られ、コンクリートの護岸で囲まれ、砂が流れ込まなくなった。農薬、硫酸銅などの薬物や、ノリ漁場の拡張、またノリの活性処理剤等が原因と思われます。貝柱に黒カビが発生し膿があるタイラギが見つかり始めたのは二十年前からでした。死に瀕した有明海をどうしたらいいのか、本当に胸が痛みます。(昭和二十年生まれ・柳川市・漁業)
3.漁業者の証言から(未完成)
実際に漁業をやってこられた方々の体験から、現在の不漁の原因をどう推定しているかをまとめてみました。海と貝のことを一番知っている漁師の声にもっと耳を傾ける必要があります。●は前記の本の中で原因としてあげている漁師さんの数です。
4.有明海の周辺:外洋の黒潮
・川に作られたダムや堰、コンクリ−トの護岸工事:●●●●●●
・筑後大堰:●●●●●●●●●
・砂を取り、泥を捨てた:●●
・ノリの廃棄、ヘドロ化:●●●●
・ノリ網とノリ竹の密集による潮の流れの変化:●
・農薬、化学肥料、硫酸銅などの薬物:●●●●●●
・洗剤、ゴミ:●●●●●
・ノリ漁場の拡張:●
・ノリの活性処理剤:●●●●●●●●
・諫早湾干拓事業:●●●●
・石炭採掘による砂地の陥没:●●●●●●●
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(参考資料:)
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海洋汚染を考える会